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pics of chicken ニワトリの絵
source of PARODY(Smiling Pico-plankton 笑うピコプランクトン)
昴(スバル)さんからのいただきもの  new!
Child Rezo ?   ちびレゾ?(冗談描き)






Japanese

つれづれ文


やっとクリスマス・デイの枝が終わりました。
こんなに長くなるはずではなかったのに。
(ひっぱりすぎだ>自分。)
ペンで描いた段階をスキャナで取り込んでみました。

 枝コミックについて つれづれ

ゼルのさまよったところはどこか? 名称は何でもいい。「あっちの世界」でも、「裏の世界」でも「アストラル世界」でも「心の深層」でも「異次元」でも何でも。

これをゼルの「夢」というふうに考えると、、ああそういうことだったのかと思うことがある。

これ、親に死なれたあと、ゼルが独りであちこちさまよい、レゾと出会い、レゾと多少なりとも信頼関係を作るまで − の経験を、夢というかたちで消化した、再構築した、ということかもしれないと。


クリスマス・デイのティーバの回想シーンの終わりでは、ちびゼルの現実は「レゾのうちで、自分を笑ったニワトリ魔族をぶちのめして結果的として追い出してしまった。なのにレゾはそんな自分を怒るでもなく、笑って許すでもなく、ただ、無視したので、思わずクリスマスツリーをぶんなげた。悲しかった。」

だから、もう1回(夢で)レゾとあって、そこに自分が追い出したニワトリ魔族も出てきて、レゾが「ニワトリ魔族よりもゼルが好きだよ」という場面があればと描きはじめただけなのさ、私は。


ところが描き始めたものの、なかなかレゾもニワトリ魔族も出てこない。

そうか、これはゼルが親と死別して、気がついたら、独りで世界に放り出されていたという場面から始まっていたわけかと、自分で今になって納得したりする。


「気がついたら世界に一人放り出されていた。あっちこっちをさまよった。追いかけられたり、怖い思いをしたりしながら、助けてくれた人もいた。泣かなかった。頑張った。なんとか、赤い家についた。そこに住んでるのはレゾだった。よくわからない変人だった。」と、ゼルは「現実」を「夢」で再体験し、もう1回レゾとの関係を修正したかっだ。ニワトリ魔族よりも自分を選んでほしかった。この家にいていいよとレゾに言ってもらいたかった。

夢は現実を消化または修正するためのもの という定義で描いたのか>自分。

まさかニワトリとゼルがダンゴになるとは思わなかった。アレを描いたときは どーするんだ>自分 と焦った。自分で自分に毎月リレーマンガを課しているようなものだから。さすがにレゾはダンゴを蹴っ飛ばすような下品なまねはしなかった。いい性格している。
「ハーメルンのバイオリンひき」のオリンじーさんや「イティハーサ」の冒頭の鷹野が陽石をもちあげるシーンなどのパロディが入ってる。という意味では、自分の読んできたマンガを消化するために描いたのかと思う。「魔方陣グルグル」の「箱の悪魔」がジュジュを乗せて(さらって?)空を飛んでくシーンから、宙をゆく石の蛇みたいなのが浮かんだといっても誰が信じよう(?)



閑話休題★★★主観の世界

大島弓子のマンガ「綿の国星」から、登場するキャラクターが擬人化される手法が始まったと前に書いたが、いや、”擬人化”というより、「自分はいずれ人間になれる」と思っているチビ猫にとっては、登場する猫もまた猫の耳のついている人間の姿で描かれるわけで、これはチビ猫の主観により描かれた世界といったほうがいいのか。

(萩尾望都が描くと「イグアナの娘」になる。子どもを愛せない母親には自分の娘がイグアナに見える。というよりイグアナが服を着てるようにしか見えないという前提が先に立っているので、「娘を愛せない母親」を読者は非情だとか母親らしくないというふうには思わずに読み進んでいくことができる。)

大島弓子が「綿の国星」から、もっと進んで、「夏の夜の漠」(というタイトルだと思ったが)は、手法としては同じの主観で見る世界というのか、登場する人間は皆、主人公の目に映る、その人の精神年齢でもって描かれるというとんでもなくこわくて楽しい風景が展開する。

だから主人公の小学生は20歳の青年の姿で登場し、そのお父さんやお母さんは小学生くらいの子ども。主人公が自分で考えて書いた作文を「どこかの本に書いてあることを書き写すのは作文とは言わない」と叱る先生も小学生。恍惚でいつもご飯ご飯といっている祖父はハイハイする赤ちゃんとして出てくる。「夕餉はまだか」としゃべる赤ちゃんに向かって「おじいちゃん、さっき食べたばかりでしょ」と、小学生の姿の「お母さん」が怒るシュールな世界。

 で、主人公の小学生は「大人」として健気に頑張る。そして最後、まるで魔法が解けるみたいに主人公は小学生の姿に戻る。読者として、君はまだ子どもなんだから、いいんだよ、好きなだけ泣いていいんだよと声をかけたくなる。悲しくても明るいラストシーン。
★★★



そんなこんな、「夢」のほうのちびゼルも彼の主観による年齢の姿にしたかった。向こうの世界では、「現実」(という言い方もなんかヘンだけど)のほうのちびゼルよりひとまわり大きいくらいの「少年」の姿のはずだと思う。そのときの実際の年齢よりも大人だったという意味で。

しかしもともと3〜5頭身の描きかただから、「夢」の側で「少年」だったら「現実」の側で「子ども」だろうといった区別も何もあったものではないと、自分でも思う。(泣)

レゾについては、精神年齢は子どもなんだか大人なんだかという気が。


なんとか描けてヨカッタ。しかし、このオチ、ちびゼルの後年(10年後くらいあと?)のことを思えば、”こうしてゼルはレゾにつかまってしまいました(レゾはゼルを手放そうとはしませんでした)”というコワイといえばコワイと言えないこともないオチだとも思う。プリーズ フリー ミー 「はなせっ」は「私を自由にしてくれ」だ。
ゼルはレゾから自由になれたのか。まそれはおいといて、この枝コミックは終了。

ここまで読んでくださった方には、本当に有難うございました。

(04,01,14)