O )  「悪」 


 物語で、主人公が倒すべき「」は、本来、主人公が折伏すべき強暴な自分自身、または自分の内に
取り込むべき自分自身の「」。


 だから、おもに ”幼少期の子供”向けの、合体ロボット特撮モノとかに出てくる悪の帝王たちの目的は
「世界征服」だったりする。
 たしかに悪の怪人は異様な格好をしていても、幼稚園バスごと誘拐して仮面ライダーをおびき寄せるような
姑息なマネばかりする、見る者(子ども)の分身でもあったのか。

 しかし、今の世の中、悪の帝王が「世界征服」に成功したら、一番最初に手をつけなければならないのは
環境問題だ。正義のヒーローは「この美しい星を守りたいから」とか「願いは一つ、青い空」「太陽輝く地球を守れ」
とか歌ってたし、昔の「悪」は「美しい地球を手に入れるために」正義のヒーローと戦っていたように思う。

今の「ゴーゴーファイブ」( 日曜朝のゴレンジャーの末裔の番組)の「悪」の目的も世界征服だった。


    閑話  美しい地球を守るために人類を一掃しようという「悪」が、これから現れても
         おかしくはないような気もする。


 しかし、
自分が幼少期に見た「レインボーマン」(古い!)という特撮モノに出てくる「悪」は、「死ね死ね団」(笑)といって、
「世界を滅ぼす」ことが目的の、ミスターK率いる秘密結社だった。

 こういう目的は、それまで見た特撮モノにはなかった異質な「悪」であり、子ども心に、違和感というか、怖さを
覚えた。(それで、私は最初の頃しか見なかったのかと、自分で思いかえして、腑に落ちたような気がする。)

(主人公が修行を積んで呪文(アノクタラサンミャクサンボダイ)を唱えて変身するのは、当時の小学生には
 かなりのインパクトがあったのは確か。オウムの事件の中核になった世代が子どもの頃に放映されて
 いたので−見ていたとしたら−アニメトラウマになっているはずだという説もうなずける(笑)。
 この世を救済するレインボーマンになりたかったヒトが、「死ね死ね団」になってしまったのは悲しい)


今は、「世界を滅ぼす」ことを目的とする、スレイヤーズの「悪」に対して、違和感はない自分。
この「悪」は、世界を滅ぼすのは自分たちでなければならないというほどに、世界を愛してもいる。

「生は喜び 死は救い」


(軌道修正)

物語の表層では、レゾはシャブラニグドゥに操られていたと見るべきかもしれないが
私は、シャブラニグドゥはレゾの「影」とみている。

善なる者が悪玉に操られていたとは思わない。かといって彼自身が悪玉だったとも思わない。

レゾの瞳に宿る魔は、彼の影の部分、心の闇(病み)の象徴、というふうに私は考えている。
それは、「世界など滅びてしまえ( 滅びてもかまわない )」 と言いたかったもう一人の自分。

         あるいは 

 < 世界を見るために、 この目を開かせたい >
 
              ↓

 < 目を開かせるためなら、 世界など滅びてもかまわない >

              ( または、「他人を犠牲にしてもいとわない」)

  と、手段が目的に転化してしまえる危うさと脆さがあったと思う。

         そしてまた

「世界を見たかった」というのは表ての理由。(誰が彼に世界の美しさを教えたというのだろう?)

本当の理由は、理不尽な運命に勝ちたかったから。
魔を封印された瞳を持った<私>に生まれてきたことを、運命的なものだといって諦念しなければ
ならない必然性はない。

確かに、青年童話の課題、青年の主人公にとっての課題の一つは、「運命」へ挑戦すること。

しかし、中年童話,老年童話(中年以降の世代を主人公にした童話や物語)のそれは、「運命」を受け入れること。

今ある自分を受け入れることが、成熟への課題であり、それが出来なかった「運命に勝ちたかった王様」は
破滅を迎えるしかないというのは、物語におけるひとつの道理かもしれないけれど。

「 人生とは 目を覚ましたい悪夢 」
「 バカは 死ななきゃ治らない 」   (…などと唱えてしまう、今日この頃)

彼はどうしてもあきらめきれなかった。
目が開かない自分と 自分の目を開かせることができない自分とを、許せなかった。
ほんとうには大人になれなかった。

(なぜ?)
(子ども時代をじゅうぶんに生ききることが出来た者だけが、ほんとうの大人になれる)
(じゃあ、彼は、それが出来なかった?)
(彼の内のどこかに、あきらめのつかない子どもが残っていたのかな)

彼が自分の魔法容量(治癒能力)に目覚める前は−いや、目覚めた後も−
彼は、(無条件で)<愛された子ども>でありえたのだろうか?


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